歩くような速さで、ちょっと月まで。

思うことをつらつらと。ただの腐った会社員です。不定期更新。

こんな新人は見捨てて良い

このブログを作ってから、なんか書きたいなあと思ってるうちに何も投稿せぬまま時間が過ぎてしまった。
その間、自分の目につくところでは新社会人漫画の人とかhnnmゾーニングの人とか色んな人が炎上してて、その主張に「ちょっとなんかなあ」と思いつつ、やっぱり何も書かずに終わった。当事者周辺がグダグダの様相を呈していたし、思うことはあってもそこに参戦したかったわけでもないし。
いつもいつも炎上するのってだいたい「ちょっとなんかなあ」な主張をされる方々なんだけど、それに対するしごくまっとうな意見も多いのだけど、一部の人格否定をともなう暴言が目立ってきて「よってたかってフクロにするのはどうなん」って擁護する人が出てきて、飽きた人から散ってって、自然鎮火……って流れになるような。
ようはただのイジメの話になってしまって、最初の主張の是非とかは有耶無耶になってしまうんだな(是非を決める意味はあるのか、どこの誰が決められるのかは置いといて)。
そしてまた、どこかの誰かが同じことを繰り返す。是非もないね。

だから今更の話ではあるのだけれど。あの漫画を読んだとき、自分の頭に浮かんだのはタイトルの文言だった。
ちょうど新人に手を焼いている時期(なんと今も焼いている)だったから、すごい、勘違いも甚だしいな……って唖然としてしまったのだ。

今時、新人に対しては怒っちゃいけないと言われる。なんなら幼児期から一貫して褒め教育を推奨される(主に専門家とやらから)。
そこにはしつけと体罰の違いなんて問題も絡んできて、なんかもう面倒だから褒め教育至上主義な風潮になったんじゃないの、なんて、捻くれた考えも浮かんでくるが、それはまた別の話として。
それから叱るのはいいけど怒るのはよくない、とかも言う。叱るのは建設的で、怒るのは非建設的だから、であるらしい。
ある意味あの漫画も怒り方を考えて(=建設的に叱って)という実はよくある主張の焼き直しに過ぎなかったのかもしれない。

でも、そもそも叱ると怒るの分岐点はどこにあるの?と私は思う。
叱るか怒るか未確定である行為を区別するために「叱責」と表記するけど、叱責する側、される側、双方に主観があって、周囲から見た客観があって。さらにその第三者だって叱責する側に近い上司/先輩か、される側に近い部下/後輩かで見方が変わってくるんじゃないだろうか。ようは「完全な客観」なんて存在しないんじゃないだろうか。
だったら、その叱責が建設的か非建設的かジャッジするのはどこの誰なんだろう。結局それが叱るなのか怒るなのかは、主張する側の自己申告でしかないよね、と。

新人教育をしてて思うのは、同じことを言っても「響く」子と「響かない」子がいるということ。
そして当然、響く子は伸びるし響かない子は伸びない。つまり、同じ言葉なのに前者にとっては建設的で、後者にとっては非建設的ということになる。
上司に怒られた(叱責された側の主観)、その言葉は心に響かなかったし、当然ながら成長にもつながらなかった=非建設的だった、つまりやっぱりあれは叱るではなく怒るだったのだ(前述の主張の強化)→ちょっと上司ィー、なにやってんのよ新人を教え導くのがあんたの仕事でしょ、ほら理不尽に怒ってないで正しく叱ってよ……
そんな、言うなれば「責任転嫁」をあの主張の端々から感じてしまったのだ。

もちろん、新人個々の適性を見て言葉を選ぶ必要はあるのだろう、と思う。それができるのが理想のスーパー上司なんだろうな。
けど、私から見て「響く」子と「響かない」子にはある違いがある。
それは「自分を導く力」があるかないかだ。他人に、上司に導きを丸投げする前に、自分で自分を良くしようという意思があるかないか。そのための努力をしているか否か。
響く子は、指導の場をぶっつけ本番にはしない。ちゃんと自分で予習してくる。それは、自分がまだ仕事が「できない」ことを知っているから。できないからこそ、できるようになるために何をすべきかを考えて実践してくる。指導の場は言わば予習の「答え合わせ」で、その結果を復習に生かす。自学自習のサイクルを持っている。
響かない子はぶっつけ本番。メモこそ取るけど(取らないのは論外)、それを後で見返したり纏め直したりしてる形跡はないし、指導されたことを完全に覚えられもしないのに復習している様子はないし、当然予習はしてないし、結果としていつまで経っても同じミスを繰り返す。……そりゃできなくて当たり前だわ。

「できる」「できない」の前にはね、「やる」「やらない」があるんだよ。やらなかったら、できない。それは当然の帰結だ。
新人が仕事ができないのは、まあ仕方ない。だから「できないことを怒らないでよ……(非建設的でしょ)」と理不尽に思うかもしれない。けど、それは本当に「できないこと」を叱責されたのだろうか? たとえば例の漫画などは、どう見ても「やらなかったこと」がマズかったのだし、その違いが分かってないと後で痛い目を見るのは自分自身だろう。

他人に、上司に「私をできるようにしてよ!それがあんたの仕事でしょ!」と甘える前に「自分は自分にやれることをやっているのか?」と自問自答してほしい。土壌がダメなとこに上司が幾ら水をやったって無駄じゃないかね。
中には確かに「やってもやっても、できない」タイプの子はいるけれど。少なくとも努力してるかどうかは、周りから見えているものです。そして予習復習程度のことを「やれない」とは言わせない。まさか上司が予習復習ドリルややることリストを作ってくれなかったからやれませんでした、はないでしょう。そこまで責任転嫁できたら見上げたものだよ。

──建設的?非建設的?それ以前にあなたは「建設適地」ですか?

そんでもって、土壌改良まで他人に責任転嫁するんならそれもう自分の人生を生きてると言えるのかと思ったりするわけです。
今の世の中、なぜかスーパー上司でないと(響かないタイプの部下から見て)仕事してないことになるらしいけど。あなたを指導してる上司にも先輩にも他に本来の仕事があって、なんなら自分の時間を割いて指導したり、できない部分を埋め合わせたり、ミスの尻拭いをしたりしてるんであって、あなた自身を救うのは上司/先輩の仕事じゃないんやで。いつ会社を保育園と誤認したし。

教え導くのが本来業務なのは先生と名のつく職種だけです。他人を給料泥棒扱いする前に、一人前どころか半人前以下の仕事をしている新人にも(新人基準とはいえ)一人前の給料が出ている、そのことに思いを致してほしい。それでも自分で自分を良くしようという意思が持てないのなら、それは立派な背信行為だ。

そう、上記に当てはまる新人諸氏よ、あなたは信頼を、期待を裏切っている。
「別に頼んでないし、勝手に期待されても……」などと言うのは思春期の少年少女にしか許されない。だって面接で自己アピールしたんでしょう? 「御社に入りたい」というのは「御社にとって私が有用な人材となることを期待してください」というのと同義だよ? 期待できない人材なんて最初から採らないからね。
そして安心していい。期待が失望に変わったとき、あなたはもう「怒られる」ことはなくなるだろう。代わりに見捨てられるけど。
新人一人が不良債権になるのは確かに痛いが、その一人に時間と労力を割く方が不利益だと判断されたとき。多くは一年後、次の新人が入ってくる頃に。

……そんなことを、あのときつらつら思って、記事を書こうか悩みつつ見送ったけど、結局書いてしまった(なぜなら現在進行形だから)。
褒め教育は確かに効果的な面もあるし、できたら叱責するより褒めたいけどね。だったら褒めどころを持ってくださいよ、もう。褒められるものなら褒めたいよ、こっちだって。
パワハラでストレス発散できるのなんて、一部の人格破綻者くらいじゃないの? ネット上で、部下の主観からパワハラ上司と論われてる人の何割かは、実はモンスター部下に胃を痛めてる被害者だったりしない?とまで思ってしまう。

だって叱責するのってすごく疲れるよ。むしろストレス溜まるわ。このままほっときゃ自滅するものを、もし本当に嫌いで憎いなら、わざわざ構ったりしないでさっさと家帰ってお笑い番組でも見るんじゃないの。
もちろん中には本当にパワハラ被害に遭ってる人もいるのだろうし、そういうクソ上司のことなど慮る必要はないけどね。なんか思い違いして上司が自分のために何かしてくれる生き物だと、それが当然だと思っちゃってる人はちょっと我が身を振り返ってみよう。

自分のために何かできる人、その一番は、まず自分自身であるべきなんですよ。

新人って、まずは「できない」ところから始まるし、それを脱するためには「自分に何が足りないか」を把握することが必要(自分に「できること」を探して実践するのも大切だけど)。
そう考えると、褒め教育至上主義もいかがなものなんだろう。幼児期から自分のプラス面だけ見てマイナス面に向き合ってこないのは、それはそれで歪なんじゃないかなあと思ったりします。




──2019年、夏。「部下の良いところを伸ばしてあげるのが上司の仕事」論が溢れる昨今のネットの片隅で。